適応できること、できないこととは

【”普通”へのクエスチョン】
この一年、日本では2度の緊急事態宣言の発出があり、期間を問わず新型コロナへの対策で
私たちの日常は一変しました。

医療従事者の方々や、ご自身や身近な方がコロナに感染して戦っている方のご心配や苦労は
本当に堪えがたいものだと思います。
そう言ってしまうと「まだどこかで線を引いているのかもしれない自分」も感じてしまうのですが、
世界中が同じモノへの脅威に直面していても、やはり、一人ひとりの「私」の状況や考え方などで
それぞれに違う受け止め方があるのも現実として受けとめながら、「私たち」が良い方向に向かうには
どうしていくのかを考えて行動していきたいと思っています。

この大きな荒波の中で、これまでの「当たり前」がひっくり返されている。
コロナは一日も早く克服したいですが、この「”普通”へのクエスチョン」自体は、
私はとても大きな意味があると思っています。

「学校に行け(か)ない」
このことは、これまでは「異常」や「適応できていない」状態で、周りは「何とか行かせなければ」
と焦ることの方が多かったような気がします。

でも、昨春にはコロナ禍で休校やリモート授業になり、リアルな対面授業が普通にはできない状況に
なりました。
リモートにすんなりと慣れた子もいれば、リモートにはなじめず、人と会っている実感や感情が
得られず気持ちが不安定になってしまうという子もいます。

一方で、勉強は好きだけれどその他の要素、例えば友人関係や学校の雰囲気が苦手だった子で
リモートの方が楽になったという声も聞きます。

学校に行かないことが「当たり前」になった世界で、
学校に行かないこと、友達と会えないことへの不適応。
これを見て、ある意味で「不登校の逆転現象」だと思いました。

学校に行くことに適応できずに悩んでいた子たちと、表裏が逆転しているだけで、
「適応できない苦しさ」
という面では同じではないだろうか?と。
ただ、今まではあまりに厚い「普通」の壁と、マジョリティ(多数派)によってマイノリティ(少数)
の声がかき消されてしまっていた。

でも、よく見てみれば、マジョリティの中にも、マイノリティの中にも、
一人ひとり違う色の心、感情や能力が息づいている。

少しずつ取り組みもなされて、学校に行かない子の居場所も以前より増えてきています。
それでもコロナ以前は、「何が何でも学校に行かなくてはいけない」という固定概念が
まだまだ強固だったからこそ「不登校」という状態をつくってしまってきたのでは。
でもその固定概念が揺らいでいる今、「本当に行かなくてはいけないものなんだろうか?」
「この子にとって本当に向いているのはどういう学びなんだろう」と、
子ども自身の気持ちにしっかり向き合うチャンスにもなるのではないでしょうか。

これは、子どもにとっての「学校に行く/行かない」だけではなく、
大人にとっても仕事や介護、友人関係、家庭の役割など様々な場面で、これまで
「周りと同じようにしなくちゃ」
「こうするのが普通だから仕方ない」
と切り捨ててきた、自分の中の本心と語り合うチャンスだとも思っています。

もちろん、自分のやりたいようにやればそれでいい、やりたくないことをやる必要は無いという
単純な話でもないでしょう。
「自由」には必ず「責任」が付いてきます。その覚悟がないうちは、自由はとても怖いもの。
やりたくないと思っていても、やってみたら面白かったということもあります。
でも、本当にやりたいことをやろうとしたら、必ずやりたくない事もくっついてきます。
そんな時でも、やりたいことの為なら、苦労したり失敗や試行錯誤をすることが意外と
苦にならなかったりしませんか。

少し話がそれましたが、コロナの影響で「普通」が変わり始めたからと言って、
不登校や引きこもりと言われている人達の苦しさが減る訳ではありません。
(私は「不登校」「ひきこもり」という言葉が好きではありません。私が学生時代には「登校拒否」と
呼ばれていてとても悲しくて疑問でした。そう呼ぶことを本人が望んでいるなら別ですが。
そして言葉はその状態を強化してしまう気がします。例えば「自宅学習」や「充電期間」、何かもっと
楽しい言葉を自分でつけても良いのかも。)

学校や社会への適応について、様々な原因が絡み合っていて、色々な考えがあると思います。
その上で、

適応するってどういうこと?
適応できないのも苦しいし、表面上では適応できてしまう苦しさもあるよね。
そんな、自分の中の「私」の声を少なくとも自分は聞いてあげて、
できれば周りの人も耳を傾けていってほしい。
それが、新しい時代の「私たち」それぞれの幸せにつながっていきますように。

そして、コロナ収束後に何事もなかったように新たな「普通」の壁がたちはだかるのではなく、
「”普通”へのクエスチョン」は、常に心に持ち続けていたいと思います。